誰もが何かしら残して死んでいく
伊江島からの帰りの飛行機。
時間も空間も多角的に感じた。
確か一年前もそうだった。
スパークした頭みそを落ち着かせるため
赴くままにノートに文字を書きまくった。
あの時書いたことは今でも覚えている。
❝人間が向かう方向の間違いを示すのは
知ではなく、自然界の柔軟性なのかもしれない。無意識に分けてしまっている
こっちとあっちを混ぜる何かを創りたい。切り取り線の一部だけでもいいから消すことはできないのか❞
今回も帰りの飛行機の中で、
疲れて眠くて意識は飛びそうだったけど
思考停止は許されないと言い聞かせる。
いくら自分ではわかっていても、
言葉にしないと❝教育者❞にはなれない。
これはなかなか苦手な分野だけど、
カラダで学び、瞳に映ったものを、
どんな言葉でMessageで残していくかで、
その人が何を感じて、重ねて、観測して
どんな記憶を巻取るかが変わってしまう。
それが今となり、死に繋がっていること。
死を学ぶことは、
生を学ぶことでもあると教えられた。
生まれた瞬間、死は決まっている。
誰もが何かしら残して死んでいく。
自殺だって、悲しみを残す。
私は何を残せるのか?
志の高い死に方とは何か?
長年、着ぐるみを着ていたが故、
本来の姿、黄金比を見失ってしまった人を
脱着ぐるみのセカイへ運ぶこと。
黄金比のアウトプット。
それが私の❝残す❞であり、教育だった。
可能か不可能かとか、そういう話ではなく
命を使う理由がそこにはあって、
自分の生きるということでもある。
伊江島から帰り、RSELの皆にシェアし、
覚悟でしかなかったものが、
奥深くで確信に変わってる気がした。
"どうせこれしかできない"
って投げ出すよりも、
"これしかできない。だから見とけよ"
そんな生き様で連係し、ぶっこみたい。
❝おばあ✖宇宙経済✖卵運び❞に向かって。
これからも、読んでくれた人が
少しずつ黄金比に近づけるような
叡智あるMessageをブログに綴っていこう
伊江島でもらった電照菊の苗を
湘南に植えました♪
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